島津豊久生誕の串木野城

島津豊久とは

島津豊久(しまづ・とよひさ 1570 ~ 1600)とは、戦国時代の武将で薩摩島津氏の一族。
父は、島津義弘の末弟で曽祖父島津忠良より「軍法戦術に妙を得たり」と評された名将・島津家久。
関ヶ原における「島津の退き口」と呼ばれる敵中突破を成功させる為に奮戦し、戦死した猛将。初名忠豊、豊久に改名。
また漫画「ドリフターズ」の主人公として描かれているほか、「世に類いなき容顔美麗」美少年であったとされている。

関ヶ原「島津の退き口」

関ヶ原では、父の死後、息子同様に接してくれた島津義弘と行動を共にするも、兵数の少なさから戦力として見てもらえず、墨俣城攻略戦では前線に取り残され、夜襲は「田舎戦法」と戦下手に定評のある石田三成に嘲笑されて採用されず、島津義弘よりも腹を立てていたと言われている。
関ヶ原の趨勢が決し、島津豊久の所属する西軍の敗北が確定的になった時、玉砕を覚悟した島津義弘を説得し、前方の敵を突破して退却すると言う世界の戦史上例を見ない戦術を敢行するにあたって、島津豊久は島津義弘の身代わりとなって追撃してくる徳川軍の前に立ちふさがった。
井伊直政、本多忠勝ら徳川家の名将達を相手に死力を尽くして奮戦し、井伊直政を撃退した島津豊久だったが、全身に無数の矢を受け、体中を切りつけられて見事な立ち往生を遂げた。
島津義弘は無事脱出に成功し、島津家は生き残る事が出来た裏に島津豊久の奮戦があったからこそとも言えるかもしれない。

島津豊久生誕の串木野城

初代城主は、串木野三郎平忠道(たいらのただみち)(薩摩郡本地頭(ほんじとう)平忠直(たいらのただなお)の子)で、5代忠秋は南北朝合戦で南朝方に味方して、島津家5代貞久(さだひさ)と戦い、興国3年(1342年)頃城は陥り、忠秋は父祖の地知覧へ逃れた。それ以降当地は島津の支配となる。
文明6年(1474年)川上忠塞(かわかみちゅうさい)が、串木野城主に任じられ、栄久(しげひさ)・忠克(ただかつ)3代に及ぶ。
15代島津貴久(しまずたかひさ)は、山田蔵人(山田昌厳(しょうがん)の祖父といわれている)を串木野・市来の地頭に任じ、島津家17代義弘(よしひろ)は、弟家久(いえひさ)を串木野隈之城の地頭に任じた。
家久は10年間地頭職にあったが、日向佐土原の領主として当地を去った。また、この時、嫡男として島津豊久もここで産声をあげたとされている。

もし島津豊久の奮戦がなければ・・・後々の島津斉彬や西郷隆盛の活躍、今の日本もなかった・・・・かもしれません。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする